6. 邪馬台国の傍証 ― 絹と稲作農耕 ―
魏志倭人伝には次のような記述もあることを前項で紹介した。
「種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜」(稲や麻を植え、蚕を育て、紡いで細い麻糸、綿、絹織物を作っている)。
そこで、稲作農耕や生活居住の遺跡が発掘され、絹の織物片の出土地が見つかれば、そこには王国であったと考えることができることになる。図13は、その中の絹製品で、弥生時代中期から古墳時代にかけての絹織物の出土分布である。図は、邪馬台国の会データーベースを原典とし、そこの資料を基に筆者が作図した。この図から、絹織物片は、弥生時代のほとんどは福岡県から出土していることが分かる。島根県、京都府及び奈良県などからも出土しているが、それは古墳時代のものであり、邪馬台国のあった弥生時代の遺跡から出土してこそ、魏志倭人伝の記述内容が証明されることになる。
図13. 絹織物片の出土地 |
弥生時代の衣服といえば、麻を紡いで織った貫頭衣(かんとうい)であるが、上層社会では絹織物であった。現代の皇室でも、孵化(ふか)したばかりの蚕(かいこ)に、桑(くわ)の葉を与える「御養蚕始の儀(ごようさんはじめのぎ)」が伝承されていて、2020年5月11日、皇后の雅子様は、「御養蚕始の儀」に初めて臨まれた旨の報道があったばかりである。
吉野ヶ里では、剣身と柄(つか)の部分を一体にした有柄細形銅剣(ゆうへいほそがたどうけん)が墳丘墓から出土しているが、その柄の部分に絹織り片が付着していた。この絹は、紀元前2世紀頃、中国南部の江南地方に飼われていた蚕の絹であることが、遺伝子分析により分かっている。遥か昔から、桑の 葉を摘み、蚕を飼い繭(まゆ)にして、絹糸(きぬいと)を紡ぎ、織って衣とする、この作業は今に伝承されているのである。
付言、熊本県球磨郡の球磨村は棚田でも知られているが、球磨村には「毎床:まいとこ」という変わった姓の家が何十軒もある。この姓は球磨村特有の姓で、発祥は球磨村三ヶ浦の小字地名らしいが、地元史家の話では「まゆどこ:繭床」が語源で、棚田となる前は一面が桑畑であり養蚕農家が多かったということである。
図14. |
図14は、水田跡、畦畔(けいはん:田のあぜのこと)遺構、炭化米など稲作農耕に関わる物証が確認された地である。炭化米とは、米粒が炭化して炭(すみ)になった状態、圧痕とは、米粒や植物の種、時にはコクゾウムシなど米喰い虫が土器などの表面に圧着された窪み跡のことである。さらに、プラントオパールというのは、イネの葉先などに見られる珪酸質の硬く鋭い棘(とげ)のことでイネが水に溶けた珪酸を根から吸収して細胞に蓄え、ガラス質に変わったものである。この図からも、福岡県の北西部や佐賀県の唐津あたりに水田跡が多く稲作農耕が行われ、伊都国の一部であったことが分かる。
稲作農耕を持ち込んだのは、中国南部からの渡来した弥生人であったことが、ミトコンドリアDNA(遺伝物質)鑑定によって明らかになったと、日中共同調査団によって発表された(2006年3月7日、朝日新聞)。中国南部は、邪馬台国の3世紀の時代であれば、呉(ご)の国あたりである。
7. 邪馬台国の傍証 ― 鉄製品 ―
邪馬台国の地がどのあたりであるかのヒントを与えてくれる魏志倭人伝の記述箇所、三つ目は、「兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃」という箇所である。ここの意味は、武器は矛、盾、木の弓を用い、弓の下を短くして上を長めにしている。竹の矢に鉄の鏃(やじり)、骨の鏃を用いる、である。
図15. 弥生時代における鉄器の地域別出土数 |
図15は、広島大学の川越 哲志教授編纂の「弥生時代鉄器総覧:東アジア出土鉄器地名表Ⅱ」電子版2000/2、に掲載されている弥生時代の鉄器の地域別出土分布である。鉄器とは、鉄でできた矛や剣,鏃などのことである。魏志倭人伝の記述に沿えば、矛や剣及び鉄鏃(てつぞく)など鉄製品の出土数の多い地域が邪馬台国である可能性の高いことになる。前述のように、魏志倭人伝に「骨鏃」とあったが、石器時代の鏃は、石を破砕したり、磨いたりして作ったものであるから石鏃であり、縄文人は狩猟で捕獲した動物の骨などを利用して鏃を作ったので骨の鏃、骨鏃というわけである。製鉄とその加工が行われるようになった弥生時代には鉄で作られるようになり、鏃と言えば鉄製であることが漢字の「鏃」が金偏であることからわかる。
図15では鏃と剣の出土数の区別は出来ないが、同書には、その内訳も明記されており、それによると弥生時代中期までの鉄鏃の最多の県は福岡県の48個、次いで多いのが熊本県の20個、三番目が兵庫県で15個、奈良県は0個である。なお、図15の挿入写真は弥生時代中期の吉野ケ里遺跡から出土した鉄鏃と鉄剣(右の二本)である。
図16. 細形銅剣の地域別出土数 |
鉄製の剣が鉄剣であり、銅製のものが銅剣である。銅剣には、刃幅の細い細形銅剣と刃幅が広く平らな平銅剣がある。このうちの、細形銅剣は弥生時代初期の銅剣であり、その地域別出土分布が図16である。その数は、全国で77本、その内の49本、6割以上が福岡県からの出土している。
付言しておくと、平形銅剣は、広島県、岡山県、愛媛県などの瀬戸内沿岸部で多く出土し、九州とは異なる部族や集団の根拠地であったことを示唆している。
以上、魏志倭人伝に記載されている内容から邪馬台国の比定地としてヒントとなる箇所を見てきた。最後に紹介するのは、傍証のダメ押し記述とでも言える箇所である。「其地無牛馬虎豹羊鵲」(その他、牛、午、虎、豹、羊、鵲(セキ:かささぎ)はいない)。この記述から、馬具や馬飾り片が出土する遺跡は邪馬台国時代(弥生時代)の遺跡ではないことになる。馬が持ち込まれたのは古墳時代の始め(4世紀頃)であり、古墳時代遺跡である宮崎県の西都原古墳や熊本県あさぎり町の才園古墳からは、馬具類が多く出土している。また、邪馬台国畿内説では、その有力候補地とされる奈良県の纒向遺跡(まきむくいせき)からは馬具の一種で、馬に乗るとき足をかけるリング状の輪鐙(わあぶみ)が出土している。このことは、纏向遺跡そのものの築造が、三世紀の邪馬台国時代よりも新しいものであることを意味している。
ついでだから付言しておくと、神話の中にも「自らの暴露神話」がある。有名な「天岩戸」の神話である。話の筋は、アマテラスの弟、須佐之男(すさのお)が機織りしていた姉を驚かそうと天井から馬を投げ入れた。姉のアマテラスは怒って天の岩戸に隠れてしまった、というものである。先に述べたように、馬は4世紀頃から入ってきた動物であるから、記紀にある国生み、天岩戸、国譲り、八俣の大蛇、天孫降臨などの話は、紀元前六百何十年も昔のことではなく、4世紀以降の大和政権によって、朝廷に都合よく作られた話であることがわかる。